
世にスキャンダルの種は尽きまじ。自民党のごたごたが連日報じられている。
スポーツ界一つとっても、日大アメフト部から、大相撲の北青鵬の暴力事件、さらには品行方正の代名詞のように言われた大谷翔平の周辺にさえ「賭博疑惑」が起こっている。そのたびに雑誌メディアが大きく取り上げ、新聞やテレビも後追いで報道合戦をしている。
こういう事件が起こってしばらくすると「もう聞き飽きた」とか「メディアは目立つことばかり考えている」「偏向している」みたいな批判の声が聞こえる。
そして「スキャンダルなんて、マスゴミの金儲けの手段じゃないか」と自称良識派の人たちが言い始める。あたかも「スキャンダル報道」が「世の乱れの元凶」であるかのごとき論調が、あちこちからでてくる。
しかし「スキャンダル」は、自由にモノが言えて、報道もできる国でしか報じられない。
ロシアでプーチン周辺のスキャンダルが出ることはあり得ないし、中国でも習近平のスキャンダルは「存在しない」ことになっている。
出てくるのは反体制派の人々の「スキャンダル」の話だけだ。
プーチンも習近平も、自国では「無謬」で「神に近い品行方正」な存在なのだ。

どんな国家体制でも、権力や権限、権益は偏在する。力を持った人間は、その力を不当に行使して利益を得ようとする。いわゆる汚職や不正が横行する。そうした世の中の「汚染」は、独裁国家でも自由主義国家でも、必ず起こりうるものだ。
独裁国家の場合、その「汚染」が、権力サイドで起こった場合には「なかったこと」にされる。権力者の「無謬」こそが統治の論理だから、国家権力の担い手が不正をすることはあり得ないのだ。
しかし自由主義国家では、権力の側に立つ人間でも、一般人と同様、不正を働けば司法やメディアによって指弾される。権力者は自分たちの不正を隠ぺいしようとするから、それを無理にこじ開けようとするメディアとの間にトラブルもおきる。
メディアは、不正を暴くためにイレギュラーな手段も使う。またメディアへの露出も「正当な報道」だけでない。人々の耳目を引き付けるために「興味本位の報道」も行う。それが「スキャンダル」だ。
スキャンダルは不正を働く権力者に対して、出来るだけ大きな打撃を与えることを目的として発達してきた。
そしてスキャンダル報道には原則として「タブー」はない。どんなカテゴリーのどんなジャンルの人物であっても「不正」が行われれば、赤裸々に暴き立てる。
こうした報道に眉を顰める人も多いが「スキャンダル」報道が消えるときは、その国から「自由」がなくなるときだ。
「全く最近の報道の品のなさといったら」とお利口ぶっている人たちは、赤裸々なスキャンダル報道が許される社会こそが、普通の人間にとってくらしやすい「まともな社会」であることを知るべきだ。
我々にできるのは「スキャンダル」を拒絶するのではなく、その中から「選び取る」ことなのだ。
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独裁国家の場合、その「汚染」が、権力サイドで起こった場合には「なかったこと」にされる。権力者の「無謬」こそが統治の論理だから、国家権力の担い手が不正をすることはあり得ないのだ。
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