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40本塁打40盗塁はすごいけど、0本塁打0盗塁なんて、掃いて捨てるほどいるじゃないか、と言われるかもしれないが「規定打席以上で」となると、これはなかなかではある。
1936年のプロ野球草創依頼、規定打席、規定打数以上で「0‐0」は、9人いる。
年代順。

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1936年の秋は、春に始まった職業野球のリーグ戦で、はじめて「個人記録」がランキングされたシーズンだ。
このシーズンと翌年春のシーズンに野口明が「0‐0」を記録。このシーズンの規定打数は「55」だった。それをクリアした野口は0‐0だった。ただし野口は2年間70試合の内、56試合で投手として登板、二刀流と言うか、投手が完投するのが前提だったから打者としては期待もされず0‐0でも問題なかった。

以下、戦前のショートシーズン時代の選手が8人、野口以外は投手での出場はなかったが、主として守備の人だった。杉田屋守は日系二世、外野守備の名手だった。杉下茂さんに話を聞いたときに、学生時代に指導してもらったことがあると言っていた。

ロングシーズン制になってからは1943年の南海、長谷川善三が記録。打率は.137、規定打数240以上の打者の中で39位、最下位だった。翌1944年を最後に職業野球は中止となる。物資不足もあって極端な「投高」になっていた。

戦後は「0‐0」はいないが、「0‐1」は通算で20人いる。草創期から順番に。

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創設年の1936年は、水原茂をはじめ4人が0‐1、この頃は「記録」には無頓着だったのだろう。
以下、ショートシーズン次代が13人、戦前が5人。

しかしそれ以降で2人いるのだ。1992年の阪神、和田豊と2016年の楽天、藤井一也。
これだけ手数が少なくてレギュラーか、と思ってしまうが、和田はベストナイン、二塁手としてベストナイン。藤井も二塁手としてベストナインだった。和田など最多の8三塁打を打ちながら、どうして走らなかったのかと思うが。

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この二人とも大きいのを一切打たず、走らずだったが、守備の人として必要だったのだ。

なお「1‐0」はいなかった。




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