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日刊スポーツ
野球を愛し、母校に深い思い入れを持つ選手をどうすれば育てられるのかを常に考えていた指導者が、行き過ぎた指導が原因で、愛してやまないHEIANのユニホームを志半ばで脱いだ。



山脇護校長
「(原田監督は)“生徒をなんとか活躍させてあげたい思いからだった。申し訳ない”と話している」

竜谷大平安監督の原田英彦を擁護する声は、せんじ詰めれば
「暴力を振るわれる生徒の側に問題があり、指導者は、それを強制するために暴力をふるった」
という理屈になる。

端的に言えば「指導者に責任はない」ということだろう。教育現場の暴力肯定の理屈は、だいたいこういうものだ。

問題行動を起こした生徒がいたとして、それを指導するときに「熱心さのあまりに」手が出てしまったと。

昭和の時代であれば、子供が怪我でもしない限り、事件でさえなかった案件だ。昭和の時代なら、おそらく謝罪するのは、指導者ではなく、子供やその親の方だっただろう。
考えれば、ここ30年くらいの間に、価値観は180度変わってしまったのだ。

しかし、どちらが真っ当なのか?と言えば、今の方が間違いなく「真っ当」だ。

「場合によっては、子供に対する暴力も許される」
という状況では、大人、指導者の「恣意的な暴力」が、横行する余地が常にある。指導者、暴力が振るう側に裁量権があり、圧倒的に優位だ。
指導者が「暴力をふるっていいかどうか」を判断できる状況では、人権も正義も存在しない。

生徒がどんなひどいことをしても、いうことを聞かなくても、それが「暴力をふるう理由」にはならない。それが真っ当な教育ではないかと思う。
原田英彦が暴力をふるったのは、彼が指導者、教育者ではなく、自分の優位的な立場を背景に「暴力をふるう」卑劣な人間だったからだ。

彼は教員免許を持っていないようだが、今後は、せめて教育について学んだ人を指導者にすべきではないか。

また彼は「自分の暴力は、教育的な意味がある、と周囲が認めてくれるだろう」という狡猾な打算もあったはずだ 。だから事件が発覚しても、すぐにはやめなかった。周りの空気を見て、退任を決めたのだ。

あらゆる教育に「暴力」という手段は存在しない。そのことを教育界が認識するのはいつになるのだろうか?

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