
102歳という大往生ではあった。私はこの大茶人がまだ鵬雲斎15代宗室だった時期に、ちらっとではあるが関連があった。
15代宗室の次男の伊住政和(擔泉斎宗晃)が興した情報商社ミリエームに、プランナーとしてかかわっていたのだ。
いろんなイベントに出展して、私もよくお手伝いに行ったが、その会場で、15代目宗室宗匠は、気さくに声をかけてくれた。関西弁で、普通のおっちゃんのようだった。
私がかかわっていた時期、15代目は、最愛の妻千登三子さんを亡くした直後だった。
鼻の下に小さな髭を蓄えていたが、これは、会う人会う人に「奥様をなくされて、お辛いことでしょう」と言われるのがそれこそ辛くて「おや、お髭を生やしておられる」と、話題が逸れることを期待してのことだったと聞いたことがある。
千利休の流れをくむ「千家」は、表千家、裏千家、武者小路千家の三流がある。いずれも千利休の孫である千宗旦の末裔だ。宗旦の三男宗左から表千家、四男宗室から裏千家、一時養家に出されていた次男宗守が家に戻って武者小路千家を興した。
「表」「裏」とは「京都御所に向かって」ということだ。御所の北側にあって、御所に近いのが表千家(不審庵)、敷地を接して北側が裏千家(今日庵)だった。私は何度か裏千家から表に「お使い」に行く伊住宗匠に同行したが、ともに小川通りに面して、歩いて1分だった。
小川通り

今では「千家」が、茶道の本流のように見えているが、江戸時代は大名が家の流派として茶道家元を名乗ることがしばしばあった。有名なところでは片桐石州の石州流や松平不昧の不昧流などがある。
これに対し、千家代々は大名家の家臣だった。裏千家は加賀前田藩の茶頭として代々仕えた。要するに将軍家からすれば「陪臣(またもの)」であり、江戸時代の身分は低かった。
しかし明治維新になって、裏千家11代玄々斎宗室が「茶道の近代化」を提唱、茶の湯を庶民文化として広げた。大名の庇護を受けていた流派が衰亡する中で、千家は明治以降に「茶道の本流」と見なされるようになったのだ。
15代鵬雲斎宗室は、11代に続く傑出した家元だった。水戸黄門の俳優西村晃などと共に特攻隊員だったが、復員後「一碗からピースフルネス」をキャッチフレーズに、世界に茶の湯を普及した。門弟の数は圧倒的で、裏千家は表千家や他の流派を圧倒する一大勢力になった。
もっとも裏千家と表千家、武者小路千家は単純なライバルではなく、江戸期から養子のやりとりをするなど、互いを補完しながら茶の湯を守り伝えている。
裏千家には古い茶人も多いが、基本的には「革新」を愛する家で、出版社の淡交社を興したり、ミリエームのような情報商社も興した。また鵬雲斎宗室の姉の塩月弥英子はベストセラー「冠婚葬祭入門」を著した。
皇室から妻を迎え、堅実な性格の長男千宗之(現十六代坐忘斎宗室)と、才気煥発、面白いことばかり考えていた次男の伊住政和は、車の両輪のような関係だと思えたが、伊住さんは2003年、44歳の若さで癌のため逝去した。伊住さんは私より1つ上で、面白い仕事をたくさんさせていただいた。それだけに、喪失感は大きかった。男前で、まっすぐ目を見て話をする人だった。落語が好きで、B級グルメも大好きだった。自身が開発した水餃子をよく買わされたが、結構な味だった。
私を呼び捨てにして「ついてこい」とよく言われたが、うれしかった。
節分の日に亡くなり、葬儀は厳寒の京都で執り行われた。横綱千代の富士の九重親方が、焼香をしたあと、靴を履きなおそうとして膝をついてしまい、立ち上がれなくなったのを覚えている。
15代目宗室にとっても伊住さんの夭逝は、妻登三子の死に次ぐ大きな喪失だったに違いない。前年12月に16代目に家督を譲り、玄室となっていたが、既にこの時期に伊住さんは重篤な状態になっていた。生きているうちに兄の16代目襲名を見せておきたいという配慮だったと聞いている。
長生きをすると言うのは、めでたいことではあるが、その分、悲しみの数も増える。長い長い人生を終えて、鵬雲斎は深いため息をついているのではないか。

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私がかかわっていた時期、15代目は、最愛の妻千登三子さんを亡くした直後だった。
鼻の下に小さな髭を蓄えていたが、これは、会う人会う人に「奥様をなくされて、お辛いことでしょう」と言われるのがそれこそ辛くて「おや、お髭を生やしておられる」と、話題が逸れることを期待してのことだったと聞いたことがある。
千利休の流れをくむ「千家」は、表千家、裏千家、武者小路千家の三流がある。いずれも千利休の孫である千宗旦の末裔だ。宗旦の三男宗左から表千家、四男宗室から裏千家、一時養家に出されていた次男宗守が家に戻って武者小路千家を興した。
「表」「裏」とは「京都御所に向かって」ということだ。御所の北側にあって、御所に近いのが表千家(不審庵)、敷地を接して北側が裏千家(今日庵)だった。私は何度か裏千家から表に「お使い」に行く伊住宗匠に同行したが、ともに小川通りに面して、歩いて1分だった。
小川通り

今では「千家」が、茶道の本流のように見えているが、江戸時代は大名が家の流派として茶道家元を名乗ることがしばしばあった。有名なところでは片桐石州の石州流や松平不昧の不昧流などがある。
これに対し、千家代々は大名家の家臣だった。裏千家は加賀前田藩の茶頭として代々仕えた。要するに将軍家からすれば「陪臣(またもの)」であり、江戸時代の身分は低かった。
しかし明治維新になって、裏千家11代玄々斎宗室が「茶道の近代化」を提唱、茶の湯を庶民文化として広げた。大名の庇護を受けていた流派が衰亡する中で、千家は明治以降に「茶道の本流」と見なされるようになったのだ。
15代鵬雲斎宗室は、11代に続く傑出した家元だった。水戸黄門の俳優西村晃などと共に特攻隊員だったが、復員後「一碗からピースフルネス」をキャッチフレーズに、世界に茶の湯を普及した。門弟の数は圧倒的で、裏千家は表千家や他の流派を圧倒する一大勢力になった。
もっとも裏千家と表千家、武者小路千家は単純なライバルではなく、江戸期から養子のやりとりをするなど、互いを補完しながら茶の湯を守り伝えている。
裏千家には古い茶人も多いが、基本的には「革新」を愛する家で、出版社の淡交社を興したり、ミリエームのような情報商社も興した。また鵬雲斎宗室の姉の塩月弥英子はベストセラー「冠婚葬祭入門」を著した。
皇室から妻を迎え、堅実な性格の長男千宗之(現十六代坐忘斎宗室)と、才気煥発、面白いことばかり考えていた次男の伊住政和は、車の両輪のような関係だと思えたが、伊住さんは2003年、44歳の若さで癌のため逝去した。伊住さんは私より1つ上で、面白い仕事をたくさんさせていただいた。それだけに、喪失感は大きかった。男前で、まっすぐ目を見て話をする人だった。落語が好きで、B級グルメも大好きだった。自身が開発した水餃子をよく買わされたが、結構な味だった。
私を呼び捨てにして「ついてこい」とよく言われたが、うれしかった。
節分の日に亡くなり、葬儀は厳寒の京都で執り行われた。横綱千代の富士の九重親方が、焼香をしたあと、靴を履きなおそうとして膝をついてしまい、立ち上がれなくなったのを覚えている。
15代目宗室にとっても伊住さんの夭逝は、妻登三子の死に次ぐ大きな喪失だったに違いない。前年12月に16代目に家督を譲り、玄室となっていたが、既にこの時期に伊住さんは重篤な状態になっていた。生きているうちに兄の16代目襲名を見せておきたいという配慮だったと聞いている。
長生きをすると言うのは、めでたいことではあるが、その分、悲しみの数も増える。長い長い人生を終えて、鵬雲斎は深いため息をついているのではないか。

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