
昔、おとぎ話の結末が残酷だからと、かたっぱしからハッピーエンドにした作家がいた。「桃太郎」は、桃太郎が鬼ヶ島に「話し合い」に行き、交渉がまとまって「みんな幸せに暮らしました」。「サルカニ合戦」は、カニに柿をぶつけたサルが説得されて「反省をして」、「みんな幸せに暮らしました」。昔のグリム童話や日本の民話は今より遥かに残酷で、近世に入ってマイルドに脚色されたが、今の世の中にはそれでも「子供の教育に悪い」とする大人がいて、愚かな「改変」をするわけだ。私はこういうのを「頭の悪い正論」と呼びたい。
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一応大学院まで言語学を嗜んだ立場から言うと、「前後の文脈を一定程度取り払った時にその表現がどれだけその分野特有になるか」ということは数量的に計測可能です。
そうすれば、おそらく「補殺」や「二死」といった表現は高度に野球固有の表現であって日常的な意味で生命の与奪を表すものではないから、是正するに及ばない、と科学的に裏付けができます。
一方で例えば「殺す」という言葉は、同程度に文脈を取り払った際におそらく「刺殺」や「二死」等の表現と比べて野球固有とはいえず、かなり物騒な意味が前景化してしまいます。それが科学的に裏付けられれば「補殺」や「二死」といった表現とは質的に一線を画すわけで、ならば少なくとも例えば教育の現場では使用を避けるべき、という「頭の良い正論」に基づいた議論が始まると思います。
そもそも見直す必然性がないと思いますが。何のメリットもない。
それはさておき慣用句にだって死ぬや殺すや盗むなんて例を挙げるのも面倒なくらい埋め込まれてますよ、全部言い換えますか?と問いたいです。
ネガティブな表現が全部だめなわけではない。何を残し、何をやめるのかが、大事でしょう。不良債権、不良資産なんて私は素晴らしい表現だと思いますが。
外れ1位もなぜだめ?
いえ、だから「見直すなら見直すでこういう手続きをするべきだ」と言ったまでです。
そもそも野球離れに対する問題意識の前ではこんな議論は本質的でないと私も思います。
最初から「ない話」についてコメントしていたわけですね?何故?
エントリのタイトルに「頭の悪い」とついていたからです。
科学的に問題提起した方が、そして科学的に却下した方がよっぽど頭が良いのではと思った次第です。