鶴岡御大


1950年にプロ野球が「2リーグ分立」した直後、各球団は選手の獲得に奔走した。
このとき、ターゲットとなったのは今でいう「社会人」の選手だった。戦後、鉄道管理局や大企業などが次々と社会人野球を創設し、中等学校、高校や大学の選手を獲得した。
プロ野球チームは、即戦力が欲しかったから、社会人を獲得した。
高卒選手は、育成する余裕がないから、金田正一のようによほどの能力がないと獲得しなかった。
大学選手は、プロ野球のステイタスが低かったから、あまり入団しなかった。

南海ホークスも鶴岡一人監督が就任した当時は、飯田徳治、木塚忠助、江藤正、中谷信夫など社会人選手が主力だった。
しかし自身が東京六大学出身だった鶴岡は、大卒エリート選手を獲得しようとした。また高卒の無名の素材を集めて、育成することも考えた。
エリートの「大卒」とたたき上げの「高卒」を競わせようと考えたのだ。
そうして南海が獲得した選手を見ていこう。
まずは野手

野手高卒大卒


午前中に訃報のブログを書いた岡本伊三美は高卒選手の第一号的な存在。テスト生で入って主力選手になった。内野手の森下、大捕手の野村克也、昨年亡くなった広瀬までが、叩き上げで出世した例。

これに対して大卒エリートは、早稲田の蔭山、立教大のちの大沢親分、鶴岡の後輩長谷川、さらに大争奪戦が「あなた買います」という映画にもなった穴吹という顔ぶれ。

自身がそうだったように、鶴岡御大は大卒選手は30代半ばまでに引退を勧めている。鶴岡の後に監督に就任した直後に急逝した蔭山、日本ハムの監督になった大沢、南海監督になった穴吹と、大卒選手は指導者にしたかったようだ。なお長谷川は33歳で事故死している。

これに対して高卒は、キャリアがはるかに長く大選手になった選手が多い。岡本、野村、広瀬と監督になったが、鶴岡御大は高卒を指導者にという意識はなかったのではないか。

続いて投手

投手高卒大卒


高卒投手はいわば「使い捨て」で、短期間酷使されて引退した投手が多い。当時はそれが当たり前だったが、そんな中で野村と同学年の皆川が200勝投手になった。小畑は高校で廣岡達郎の1年後輩。

大卒投手は、鶴岡と同じ呉市出身で大学も後輩の柚木、早稲田の木村、そしてこれも野村の同学年、そして立教で長嶋茂雄とともに黄金時代を築いた杉浦忠。木村は1年目に新人王になったが実質的にキャリアはこの年だけだった。

こうしてみると鶴岡御大の「選手育成」はスケールが大きく、ずいぶん先まで見据えていたのだと思う。





Note


私のサイトにお越しいただき、ありがとうございます。ぜひコメントもお寄せください!

好評発売中!

81UUCLO+nDL._SY466_

https://amzn.to/47hJdhC

81RuVXKYO8L._SY522_


たばとも

NOWAR