
松商学園以外の松本市の高校を出たプロ野球選手は5人しかいないが、なかなかの粒ぞろいだ。

松本工業高校は、甲子園には一度しか出場していないが、阪神の中継ぎ投手として息の長い活躍をした御子柴進が出ている。本人は塩尻市出身。細身の体でアンダースロー気味のサイドスローだった。
松本工業が甲子園に出たのは2010年だから、御子柴の頃は無名校だった。
御子柴の一年後輩の丑山努は、松本市出身だが川崎市に転校しているので卒業生ではない。日本ハムのバッテリーコーチをしていた。

長野県松本美須々ヶ丘高校が、松本市立高校だった時代に在籍し早稲田大学に進んだ小森光生は、広岡達朗と三遊間を組み、華麗な守備で人気があった。毎日、近鉄では三塁手、外野手、二塁手として活躍。引退後は、近鉄、広島などでコーチを務めた。

松本深志高校は、長野県屈指の進学校。長野高校よりも歴史が古く、各界の著名人を輩出している。旧制松本中学時代の1947年に甲子園に出場しているが、この時の顔ぶれにはテレビマンユニオンの創設者である故萩元晴彦がいた。
土屋正孝は甲子園には出場していないが、1954年に巨人に投手として入団。大柄な体で中軸を打つ三塁手だった。しかし長嶋茂雄の入団に伴い二塁コンバート、のちに国鉄に移籍している。

創造学園高校は、塚原高校時代から、松本市内では松商学園に次ぐ強豪校だったが、プロに入ったのは吉江喜一だけ。2年でプロ野球から足を洗っている。
明日は上田市の高校を卒業したプロ野球選手を紹介する。
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コメント
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小森光生氏は、やはり広岡氏との腐れ縁が特徴ですね。
早稲田大学でチームメイト、広島ではコーチ仲間、ヤクルトでは監督とコーチ。
ちなみに、早稲田大学の第一文学部に一般入試で合格した秀才でもあります。
確か、第一文学部には各種推薦入学がなくて、小森氏以外だと、桐蔭学園高校卒業で、オリックスにいる由田慎太郎しかいないはずです。
土屋正孝氏は、度々述べましたが、東京大学に入る学力あった文武両道選手ですね。
そういえば、亡くなった萩元晴彦さんは、私が若い頃音楽関係で通っていた御茶ノ水のカザルスホールでプロデューサーとして活躍しておりました。
ある意味、この頃の阪神投手陣を象徴するような、変則派の中継ぎ投手で、試合中盤になると度々登場するので、ナイター中継でも目にする機会は多かったですね。
小森と土屋は、リーグは違えど同じ内野手として同時期に活躍して、通算成績でも良い勝負。
数字的には土屋が若干上回っていますが、指導者としてプロ野球に残った小森と、プロ野球から足を洗った土屋の、引退後の生き方は対照的です。
大物選手の筆頭の中島治康も、現役引退後はプロ野球とは縁を切っていますけど、教育県の理想主義とプロ野球の世界の生存競争や現実主義は、どことなく折り合いが悪そうですね。
的確な解説、ありがとうございます。
教育県ということでは、長野県は理想主義で、富山県は現実主義といえますね。
長野県は立身出世しなくても幅広い教養を身につけるべしの考え、富山県は東大進学実績等をかなり気にして将来は立身出世すべしの風潮があります。
あの元長野県知事・田中康夫氏が、最後まで異端児扱いだったのも、かの正力松太郎も、富山県の旧制高岡中学卒業だったことにも、それぞれの特徴が表れています。
もっとも、長野県も最近は変わってきて、例えば佐久長聖高校みたいに目標を「東大・都大路(駅伝)・甲子園」のキャッチフレーズを掲げ、全国トップを目指そうという校風になっています。
まさかここで御子柴が取り上げられるとは思っていませんでした。
ドラマや映画になった「ルーキーズ」は阪神OBの名前を使っていますが、
名だたる有名選手にまざって御子柴がキャプテン役だったのをほくそえんでいました(笑)
91年オフだったか、地元テレビ局で御子柴と上田(日ハム)の対談番組が放送されたことがありました。
近年プロ野球選手がほとんどいない長野県にとって2人は
成功者の部類です。
同じ教育熱心でも、全国各地を回り歩く薬売りの行商の伝統があるので、商売重視・現実主義の富山県。
気候が寒くて山ばかり、多少頑張ったところでたいして生産は上がらないから、代わりに教養を身に付けて、結果的に学校の先生になる人間が多い長野県、という違いはあるのかもしれないですね。
小中学校の活動を頻繁に家庭に報告したり、泊まりがけで学校登山の引率をしたりと、教育県を自認するだけあって、長野県の先生たちは熱心です。
高校野球で、長野県代表が西日本の学校と対戦すると、勝利への執念深さや抜け目のなさでは、どうしてもかなわない場面が多かったですね。原因が教育的なものなのか、気質的・能力的なものなのかは分かりませんが。